昭 和 史 散 歩

はじめに (平成15年5月5日記)

 私Chucowは昭和15年に生まれ、小学校入学は22年。まるまる戦後教育を受けた世代です。
学校では昭和史を充分教えられた記憶がありません。中学、高校とも、古代から始まって、明治以降になると学年の終わり頃で駆け足でした。受験であまり出題されないこともあったかもしれません。
 したがって、昭和史のイメージは学校教育以外の新聞・ラジオ・テレビ等世間の風で下地が作られ、自分の読書で上塗りされたと思います。

 子供の頃の強烈な思い出。マッカーサー元帥が解任され、離日した昭和26年4月16日頃、私は4年生でした。その時、担任の女先生から、「皆さんマッカーサー元帥に感謝しましょう」とのお話がありました。「マッカーサー元帥は自分の国のためにやっただけなのに、どうして」と子供心に腹を立てた思いが残っています。当時のことは何も覚えていないのに、このことだけはいつまでも消えないのはよほど、印象が強烈だったのでしょう。

 小学校高学年の頃、在日朝鮮人のH君は真冬でも素足でした。足の指が真っ赤。俺のたびを捌けよとは言えませんでした。

 高校入学直後、クラブ活動は社会科学研究会(当時、社研と言った)に入りました。社会科の勉強をするところかと思っていたが違っていました。共産党、社会主義青年同盟の影響下で、マルクス・レーニン主義の勉強をするところでした。確か最初の読書会は毛沢東の矛盾論、実践論だったかと思います。始めは新鮮で、知識欲を満たしてくれました。ルソーの社会契約論もやりましたが、今に至るも影響を受けています。
 亀裂を生じたのは当時ソ連との間で交渉が行われていた北方四島の帰属問題からでした。私は返還主張論でしたが、驚くべきことに頭脳明晰な他の全員は反対。若かったので毎日のように議論し疲れ、最後は遁辞を弄し、会から逃亡しました。立っている土俵が違うというのが、私の悲しい結論でした。後で気がついたが、彼らは赤旗と同じ主張をしているだけでした。悪いことに大学以降も、この種の土俵が違うと感じる人との議論は避けるようになり、今に至っています。
余談ですが、その当時同学年の優秀だったK君のこと。帰還船に乗り、母国の「北」に帰ったと言われています。その後の消息は誰も知りません。

 大学入学の年(昭和35年、1960年)、安保改定の騒動に直面しました。樺美智子さんが死亡した6月15日は、学生寮で休んでいました。私は翌日のデモに参加し、頭にいくつも警棒のこぶをこしらえましたが、無事でした。同じクラスのM君は逮捕され完全黙秘のため1ヶ月近く帰されませんでした。
結局、安保は改定され、その後わが国は繁栄の道を歩みました。国の繁栄、生活水準の向上、自分の生活の安定とともに、当時の岸総理に対する私の評価は変わりました。彼の方が正しかったのだと。
あの時どうして安保改定に反対し、デモに参加したのでしょうか。
 私の場合はイデオロギーではありません。赤旗を読んでいなかったし、改定安保の条文を精読した記憶もありません。反米感情、ささやかな愛国心、体制への反撥、当時の熱気、そういった入り混じった感情に突き動かされたような気がします。恐らく一番多いタイプの平凡な人間の一人なのでしょう。

 人並みに仕事に励み、幸い健康なまま数年前に定年を迎え、今徒食しています。
私の生きてきた昭和・平成とはなんだったのか。国としては生きるすべを求めた末の敗戦、混乱、繁栄、頓挫、自信喪失の過程にあるようです。

近現代史を書いた本は数多くあります。しかし、読んでみても土俵の違う大きくは2つの流れがあり、両論はかみ合うことがありません。ひとつは岩波講座派、若しくはその流れ、他は、反自虐史観派(適当な言葉がないので、仮に称しておきます)。
岩波講座派は、主要な学者、政治家・官僚、朝日・毎日新聞などマスコミに影響を与える圧倒的主流です。中・高校の教科書の主流も同様です。
一方の反自虐史観派は一部の学者、政治家、マスコミでは産経新聞の声援を受けている少数派です。世間的には「新しい歴史教科書をつくる会」の理論的根拠。

 今の私は反自虐史観派に共感を覚えています。しかし、講座派の牙城は堅固です。これが揺るがない限り、戦後の体制変革は憲法改正を含めままなりません。
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